大溝祭の起源は、大溝藩に入封した分部光信が、前任地である伊勢上野(三重県)の曳山祭りを移したものと伝えられています。
現在の曳山はいずれも江戸後期のものと思われますが、宝永元年(1704)からの「神事方算用帳」が残っており、また、曳山の装飾具でも宝組のみす箱に元文 3年(1738)の墨書銘があることから、少なくとも江戸時代中期・18世紀前葉には行われていたことはまちがいありません。
祭りが始まった頃は今のような立派なものでなく、享保5年(1720)の記録に「すすき山出す」と出ているように、「すすき」や「松」を飾ってそれを担ぎ回した素朴なものでした。
そして時が経つに従って、能や浄瑠璃などの伝統芸能から取り入れた人形を飾った時代や、「にわか」という即席の芝居を披露した時期もありました。
五基の曳山はもともと白木造りでしたが、明治三九年頃に金箔や漆塗りが施され、今のような豪華な曳山となりました。
大溝祭は、城下町大溝の鎮守、日吉神社(山王社、祭神・大山咋命)の初夏の例祭であり、五基の曳山(巴(ともえ)・龍(りゅう)・寶(たから)・勇(いさむ)・湊(みなと))が出されて祭礼を彩っています。
ちなみに、日吉神社は、石垣村の鎮守社であったものを、同地に城下町大溝を形成するにあたって大溝町の鎮守としたものです。
現在は、5月3目宵宮(曳き初め)、4日本祭となっていますが、昭和35年(1960年)までは、曳き初めが5月4日、宵宮7日、本祭は8日であったといい、江戸時代は4月1日(旧暦)が本祭でした。
1983年には滋賀県の選択無形民俗文化財に選定されています。